パリの時計店Obley閉店のこと
Obreyのこと。
なんとなく、Obreyのことを思い出して、「Obreyの腕時計の今のデザインは?」と、ネットで検索していたら、昨年パリの本店を閉店したという記事があった。
2019/09/07
いつもObreyをお引き立て下さり、誠にありがとうございます。
1951年創業以来続けて参りましたObrey社の社長Patrickが、
高齢の為引退する運びとなりました。
「え-!」と驚く。閉店、廃業だそうだ。
今頃気が付いた。
とても残念だ。
青春の思い出がまた一つ過去に去って行ってしまった。
パリは42年前から何度も行っているが、このところ行っていない。
Obreyも42年前と40年前の2回ほどしか訪れていない。
再婚してから、妻の見聞を広げるために、海外旅行に連れて行っている。
僕にとってはメモリーレーンの旅だが、いずれの国も妻にとっては初めての海外だ。
香港マカオ、台湾、ベトナム、タイ、5年前にはドイツ、オーストリア、イタリアなどに出かけて、4年前にはロンドン、パリを計画したのだが、転居で1年延ばしになり、昨年はあいにくのコロナでキャンセルとなってしまった
妻との海外旅行では、パリではオペラ座の裏のObreyを訪ねるつもりだった。
42年前はしばらくヨーロッパを見て回っていて、その時Obreyにも妻(前妻)への土産に時計を、と立ち寄った。
小さな店で、ドアを開けて入ると、入り口の横には木製の事務机があって、老人に差し掛かっている人(僕が若かったのでそう見えたのかも)が座っていた。
ヨーロッパによくあるこじんまりとした店の形式だ。
店の外観と内装の感じでは、ユダヤ人の店ではなさそうだ。
壁の陳列棚をつぶさに見てみると、マシーンメイドもあるが、ハンドメイドらしいウオッチもある。
デザインは、どうもピンと来ない。
およそフランスデザインそのものが僕の中では、「デザインは秀逸」と「理解できない」との間で揺れ動いているからかもしれない。
この時期の愛車はフランスのシトロエン GSパラス だった。
どの日本車も到達できない完成度で僕を魅了していた。
コロナ1500クラスのボディに6年ほど前に発売されたGSは空冷3気筒1015cc(これを所有してあまりにはまり込んで2年後にGSパラス1220ccに買い替えた)で、サスペンションはハイドロだった。
一度乗ったら忘れない直進性と柔らかくフラットなハイドロの乗り心地。
ボディデザインは素晴らしく、さすがフランスという車だったが、1015ccの時はメーターはボビン式(速度数字がドラム回転する)、ハンドブレーキはダッシュボードから水平に生えていて手前に力を入れて引く。ハンドルは1スポークで、非力なエンジンをなれとアクセルワークで引っ張る大衆車で、およそ世の車とは別物だった。
時計のデザインということでは、Obreyの時計は感銘を受けなかった。
退け時かと思ったとき、彼が近づいてきて「お探しの品はありますか?」と聞く。
「うーん。無い。」と返すと、いささか困惑した表情になって、「日本人の好みはどのようなデザインか?」と聞いてきた。
僕の前妻は女子美出で、デザインにとてもうるさいし、僕もセンスはいい方だと自負している。
日本人向けのデザインについて、忌憚のない意見を話した。
彼はかなり真剣に聞いていたので、僕は「日本人の観光客が多いのかな?」と感じたのだが・・。
結局、僕が満足する品がないとわかると、「これを、ぜひ。」と言って、机の引き出しからハンドメイドの時計を出してきた。
いかにもハンドメイドという金色のオーバルのデザインで、オーバルカットのサファイアが文字盤をぐるっと取り囲んでいる。
少し大振りとは感じたが、スリランカ産のサファイアが接着ではなく、爪を起こして留めてあるまともな品だ。
cookedだがインクルージョンや曇りもない透明な上質のサファイアに見える。留めもしっかりしているので、宝石職人に留めを依頼したのかもしれない。
値段は覚えていないが覚えていないということは妥当な根だったのだろう。
価値的にもいいかと、購入することに。
さて、話はこれからだ。
その2年後に、前妻を連れてヨーロッパ周遊に行ったときに、再びObleyを訪れた。
妻は、僕がお土産に買ったObleyのサファイアの時計をつけている。
店には主人は見当たらず、若い女性が店番をしていた。2年前と同じ机に座っている。
しばらくして、その女性が近づいてきて、はっと、妻の時計に目が行って、「どこでこの時計を手に入れたのですか?」
と、聞く。
経緯を話すと、驚いた様子で、「父が2つ作ったうちの一つで、もう一方のルビーの方の時計は私が持っている品です。」と、ただただ驚いていた。
まだ、若い僕はとりわけての感慨にふけることもなく、Obleyを後にしたのだ。
はるか昔のことである。
2年前の時は、フランスの後スペインに行ったのだが、まだフランコ政権の国家社会主義の時代だった。治安はよく、道々の角に立つ盲目の宝くじ売りはフランコの方針で彼らが生きるために、車で立っ場所まで送り届けていた。
2年後、妻と一緒のこの時はスペインはフランコが亡くなって間もなくで、タクシーで目当ての毛皮店に行こうとして、通りの名を告げると、あいそのいい運転手が急に険しい顔となつて、「お客さん、その通りの名前は言わないでください。名前が変わりました。おっしゃった通りの名前はフランコの将軍の名前でした。」と言う。
急激な政変でメインストリートの名前まで変わったのか?
夕暮れに赤く染まる街を亡くなったフランコの生誕00年の誕生日を祝って、何台ものトラックに乗って、沢山の青少年がヒットラーの突撃隊さながらの黄土色の制服に身を包み、赤いスカーフをして、ナチス式の右手を上げる敬礼をしながら、何事かを連呼して走り去っていく。
ホテルの人も、「集会をしているところには近づかないようにしてください。」と勧める。
確かに、危険そうだ。
妻は、「恐ろしいところね。」と言う。
まるで、国家社会主義 ヒットラーのプロパガンダのカラーフィルムを見るようで、リアルの歴史が目の前を通り抜けていく。
Obleyの思い出で、今もこだわっているのは10年ほどたってからだろうか、銀座の時計店でObleyの時計を見かけた。
ショックを受けた。
なぜ、気が付かなかったのだろう。この時だったら日本代理店になるのは簡単だったろうと思う。
悔やんだのは、これだけではない。
サンジェルマンデュプレで妻へのお土産に、これはと見つけたコートがある。
アナスタシアというブランドで、スラブ風のちょっと着こなすにはかなりのセンスのいるオートクチュールとは正反対のボリュームのあるコートだ。
12月のヨーロッパで自身の着ぶくれにも辟易している旅行者が、よりによって冬物のコートを家で待つ妻への土産のコートを旅行鞄に押し込んで日本までもって帰っていくのも、かなりの変わり者だろう。
それほど魅力的で、新鮮に感じたデザインだった。
これも、数年して、日本橋の三越にアナスタシアの製品が陳列されていた。
なんという不覚。
実は1回目のヨーロッパ周遊は、「何か輸入するのに良い品はないか?」と探す旅だったのだ。
だから、とりわけObleyの思い出は僕の中では強く、再び訪れたいと心に決めていた。
何年か前のイタリア旅行もトレビの泉の改修が終わるのを待っていてから出かけたが、今回のパリは転居とコロナで2回延ばしているうちに、ノートルダムは燃えてしまった。
パリの三越などは何年も前に閉店してしまっているが、「Obreyも閉店してしまったのか!」
「自分もそのうち消えていくのかもしてない。」と感慨にふける。